เข้าสู่ระบบ「今度も、説明するんですね」
「出るなら、そうなります」「私が話します。先に止めないでください」 律は少しだけ間を置いた。 私は封筒を机へ戻した。「場を整えるのは手伝ってください。でも、収拾がつかなくなるまでは黙っていて」「分かりました。収拾がつかなくなったら入ります」 返事は短かった。 今は、それで十分だった。 高瀬さんが小さく咳払いをして、書類を整える。「明日の榊グループ役員会では、朝霧さんへの質問が出る可能性があります。法務としては、参加を見合わせる選択も提示します」「逃げたら、また何か言われますね」「出席しても、言われます」 高瀬さんは淡々としていた。 逃げても出ても何か言われる。私は資料の端を指で叩いた。「では、出ます」 律の指が肘掛けの上で止まった。「その判断は変わりませんか」「出ます」「怖くはありませんか」「怖いです」「当時、如月家の実子は亡くなったと見ています」 葛城の声は、乾いていた。「一方で、九条葵さんの子は死産として処理された。なのに、その記録には確認者署名がない。識別バンドの写真、看護師長の姓、父のメモ。合わせると……少なくとも一人の赤ん坊は、記録上の死と実際の所在をずらされた可能性が高い」 説明はそこで終わったのに、会議室の時間だけが止まったままだった。紙の上では「死産」「死亡」「保管」と短く片づけられている。その一語一語の裏に、赤ん坊の体温や、誰かの腕から離された重さがある。私はそこを想像しないようにして、失敗した。「可能性」 その言葉が、今日は妙に腹立たしかった。 窓際のカーテンが空調で揺れ、すぐに戻った。「私が、その子だと?」「断定はできません」「でも、そう言いに来たんでしょう」 葛城は答える前に、視線を落とした。 高瀬さんがこちらを見た。止めるべきか、迷っている顔だった。 律は黙っている。 私は水のグラスへ手を伸ばしたが、爪が側面に当たって音を立てた。 飲めなかった。「琴美さんは、知ってたんですか」 葛城は目を上げた。「おそらく、知らなかった」「おそらく」「如月琴美さんの署名は、こちらの写しには残っていません。保護者同意欄、退院関連の控え、後日の連絡先。どれも、如月隆一氏の名前が中心です」 隆一。 その名前だけで、紙の匂いまで変わって見えた。 父だった人。 私を追い出した人。 会社を守るために私を榊家へ差し出した人。 そして、二十四年前にも、何かを選んだかもしれない人。「隆一さんは、知ってたんですね」「少なくとも、何も知らなかったとは考えにくい」「考えにくい」 乾いた笑いが出かけたが、声にはならなかった。「どうして、そんなに薄い言葉ばかりなんですか」 葛城の顔が、歪んだ。「……断言できる資料がないんです。曖昧なまま伝えれば
滲んだ赤い判を見たまま、私はしばらく瞬きができなかった。 冷めた茶の色が、湯呑みの内側に濃く残っている。 紙の上の文字は少ない。 日付。産院名。女児。処置欄。 資料の端を押さえる指が、動かなくなった。 私の誕生日と同じ日付に、生まれて、死んだことにされた赤ん坊がいる。 二つの記録が、頭の中でうまく重ならなかった。「朝霧さん」 高瀬さんの声がした。 淡々としている。けれど、さっきより一瞬だけ低い。「次の紙へ進みます。止める時は、いつでも言ってください」 止めることもできる。 そう言われて、握っていた指が少し緩んだ。 握っていた手を開き、机の上へ置いた。「見ます」 声は、かすれていた。 高瀬さんは頷き、薄い紙束の中からもう一枚を抜き出した。手袋越しの手の先が、紙の角を慎重に整える。 古い事務控え。 こちらも同じ日付だった。 母体名欄には、白い四角はない。 掠れてはいるが、読めた。 如月琴美。「如月琴美」の文字を、二度読み直した。 隣で、律の指が肘掛けを強く押さえた。 私は紙から目を逸らせなかった。 新生児欄。 女児。 出生時刻。 処置欄。 そこにも、赤い判があった。 死亡確認済。 ただし、こちらには確認者署名があった。 読みにくい崩し字で、医師らしい名前が入っている。「同じ日に、二枚あるんですね」 声が、思ったより遠く聞こえた。 葛城は、机の向こうで視線を落とした。「日付も産院も一致しています」「同じ旧棟ですか」「同じ旧棟です。正確には、分娩室の記録だけ別管理でした」「これは事務側の控えにすぎません」 高瀬さんが、すぐに補う。「現時点では、この二枚だけで親子関係や生死を断定することはできません。正式な診療録、出生届、死亡届、埋火葬関係の記録、当時の台帳との照合が必要です」
生きている。 母かもしれない人が、生きている。 会議室の時計は進んでいるのに、私は同じ言葉の前にいた。「ただし、現在どこにいるか、私が直接管理してるわけじゃありません。数年前までの所在は知っています。今もそこにいるとは限らない」「なぜ、そんな言い方をするんですか」 返事は、すぐには来なかった。椅子の脚が床を擦り、その音だけが先に動いた。「九条康生が動いてるからです」 葛城は、古い紙の端を指で押さえながら言った。「あなたが葵さんに似てきた。だから三年前、如月家で偽令嬢騒動が起きた。少なくとも、私はそう見ています」 律の手が、肘掛けの上で止まった。 私は葛城から目を離さなかった。「見てるだけなら、何とでも言えます」「証拠もあります」「その証拠を見せてください」 葛城は二冊目の封筒へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。 そして、こちらを見た。「すべては、まだ渡せません」 律の声が低くなった。「渡せない理由を、具体的に」「渡せば、九条康生に私が持っている範囲を読まれます。彼は、証拠そのものより先に、証人を消します」 高瀬さんが、ペンを止めた。「消される可能性がある証人は、誰ですか」「当時の看護師長です。狭山という姓で記録に残っている女性」 守り袋の紙片にあった姓。 私は紙片の「狭山」という文字を見た。「生きてるんですね」「おそらく」「おそらく?」「十年前に一度、居場所を変えています。私が接触すると、康生に気づかれる可能性が高い」「便利ですね」 問い返す声が強くなった。 葛城がこちらを見る。「危険だから渡せない。危険だから会えない。そう言えば、あなたはずっと持ってる側でいられる」 誰も動かなかった。 律は口を挟まず、私を見ていた。 私は机の上の紙を見た。 生まれた日の記録。 母親の名らしきイニシャル。 死んだことにされたかもし
「……そう言われると思っていました」「それも嫌です。分かった顔をしないでください」 葛城の指が、ぴくりと動いた。 言い切ったあと、口の中が乾いた。 レコーダーの赤いランプだけが、点いたままだった。 律がこちらを見る気配がした。でも、何も言わない。 よかった。 今、代わりに怒られたら、私はたぶん何も言えなくなる。 葛城は深く息を逃がした。「……すみません。今のは、余計でした」 私は答えず、封筒を見た。「中身を見せてください」 葛城は高瀬さんへ視線を移す。高瀬さんが頷き、手袋をしたまま封筒の状態を撮影した。封緘部分、署名、日付、折れ、汚れ。ひとつひとつ記録してから、開封用のペーパーナイフを入れる。 中から出てきたのは、薄い紙の束だった。 コピー用紙ではない。もっと古い、少し黄ばんだ感熱紙のようなものと、台帳を撮影した写真のプリント。 高瀬さんが一枚目を机の上に置く。 白桐産院 旧棟 入退院事務控え。 文字はかすれていた。けれど、日付だけは読めた。 日付を追っていた目が止まった。「これは、正式な診療録じゃありません」 葛城が言う。「診療録の原本は、閉院後の移管先が不明瞭です。私が保管していたのは、事務側の控えと、父のメモの一部だけです。だから、今ここで断定はできない」「断定できない資料を、なぜ今出すんですか」「あなたが、紙片を見つけたからです」 先回りされていたことが、また一つ増えた。「つまり、私がここまで来るのを待ってたんですね」「待ってた、というより……」 葛城はそこで初めて言葉を探した。「こちらから押しつけていいものじゃないと思ってました」 呆れて、息が漏れた。「それを決めたのも、あなたですよね」 葛城は返事をしなかった。 誰もすぐには口を開かなかった。 高瀬さんが、二枚目の紙をそっとずら
「録音を開始します」 高瀬さんがレコーダーのボタンを押した。 赤いランプが点く。 葛城はそれを一度見て、軽く頷いた。「構いません。私がここへ来たことも、記録に残していただいて結構です」「では、まず確認します。葛城静司さんご本人ですね」「葛城静司です」「本日持参された資料について、入手経路と保管状況を説明してください」 高瀬さんが事務的に進める。 葛城は鞄の持ち手に指を置いたまま、ゆっくり話し始めた。「白桐産院旧棟の閉鎖時、廃棄に回るはずだった事務記録の控えです。原本じゃありません。父が関係していたので、私が一部を持っていた。正規の保管ではありません。……だから、これだけで法的な決定打にはならない」 自分に不利なことを、先に言った。 その慎重さが、かえって気持ち悪かった。「それでも、持ってきた理由は」 高瀬さんが聞く。「もう、隠しても意味がないからです」 葛城はそう言って、私を見た。 目が合う。 穏やかな目だった。けれどそこには、会えて嬉しいという温度がうっすら残っていた。 私は膝の上で手を重ねた。「……私の人生を、見てたんですか」 葛城は一度だけ視線を落とした。「見ていました」 あまりに短い返事で、かえって腹が立った。 律の手が、車椅子の肘掛けの上で止まる。 葛城は続けた。「二十四年前、私はあなたの存在を知りました。白桐産院で何が起きたのかも、完全じゃないにせよ、早い段階で知ってました。その後、あなたが如月家に引き取られたことも、三年前に家を出されたことも」 その先の説明が、一瞬、耳に入らなくなった。 知っていた。 私がコンビニで深夜に立っていたことも、祖母の病室へ行けずにいたことも、三年前に電話を切られたことも。 どこまで。 聞こうとして、声が出なかった。「結局、何もしなかったんですね」 代わりに出た言葉は、それだ
午後の白い光が窓に残り、誰も手をつけない湯呑みの茶は冷めていた。 榊グループ別館の小会議室は広すぎない。長机が一つ、椅子が六脚。 机の中央には、高瀬さんが用意した記録用のレコーダーが置かれていた。赤いランプは、まだ点いていない。 私はそのランプを見ていた。 赤く光れば、ここで交わされる言葉は記録になる。 でも、記録になったからといって、すべてが真実になるわけではない。 三年前、私はそれを嫌というほど知った。「今から断っても構いません」 隣から律の声がした。 今日も黒い仮面をつけている。車椅子には座っているが、膝にはいつもの薄いブランケットがかかっている。外から見れば、以前と同じ榊律だ。けれど、私だけが少し違うものを聞いてしまった後だった。 黒い仮面の下に、噂とは違う顔があること。 隠していた理由。 隠されていた時間。 それを許せたわけではない。けれど今、私の前にある問題は、それよりずっと古い。「来てもらった以上、会います」 自分の声は、思ったより乾いていた。 律は視線を下げ、言い返さずに机の端に置かれた封筒へ目を向けた。 葛城静司から届いた面会の申し入れ。 高瀬さんが、書類を確認しながら言った。「本日の面談は、榊側法務同席、録音あり、葛城氏持参資料についてはその場で原本確認のみ。受領する場合は、受領書を作成します。朝霧さん、途中退席も可能です」「進めてください」「葛城氏には、質問への回答義務はありません。ただし、虚偽説明が確認された場合、今後の協議は打ち切ると伝えています」 高瀬さんの言葉は淡々としている。だから助かった。今、優しい声で大丈夫ですかと聞かれたら、たぶん立っていられなかった。 ドアの外で、控えめなノックがした。 相良さんが扉を開ける。 入ってきた男は、写真で見た印象より少し細かった。 五十代ほど。背筋は伸びているが、肩に力はない。濃い灰色のスーツに、古い革の書類鞄。目元は穏やかで、笑っているようにも、何も感じていないようにも見えた。
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







